これは私が個人的に考えていることですが、
「自己評価」という言葉があるのは、「評価は他人がすること」だからではないか?
と考えています。
ここでいう評価は、評価基準のある客観的な評価ではなく、評価者の主観的な判断による評価のことです。
評価についての一般的な考え方とは思っていないのですが、
- 評価は他人がするのものですから、評価された結果は受け止めます。
- しかし、評価のために何かをするというモチベーションがあまりなかった。
と考えています。
もう少し補足すると、評価は他人が判断した結果なので、よい評価を得るということは他人の評価がよりよくなるような何かをすることになります。
この様な考えから、評価をよりよくしようとするのではなく、よりよい結果を得るために何をするかが重要だと考えています。
ここでは、「評価は結果だから、気にしてもどうにもならない」と私が考える理由を説明します。
昇任試験(論文)で評価が割れる
あまりにも考え方が独特な場合には、
- 個性といわれる。
- 変わっているとみなされる。
ことがありますが、私は後者の「変わっているとみなされる」に当てはまるようです。
とある営業さんと、「仕事では、かなり癖のある人でも個人的にはあまり気にならないんだよね」と言ったところ、「はかせは気にしないからじゃないですか」と一言。
確かに、気にしたところで変わらない場合には気にしないのが私のポリシーの1つのように感じて、妙に納得した覚えがあります。
さて、なんと言われても気にはならない私ですが、若いころの昇任試験では極端な評価(採点結果)となって表れたことがありました。
昇任試験の結果を大きく左右するのが長文の論文でした。
- 評価は、A、B、C、D、Eの5段階で、Aならは合格、BとCは総合点で判断、Dはもっと勉強が必要、Eは不合格のようなイメージです。
答案は無記名で複数名で採点するのですが、私の論文の採点結果にはAとEとがあったそうです。
長文の論文試験では、問いに対する考え方を問われますので、高い評価を得るためには、採点者が好む(高評価になる)ような思考過程と結論でまとめればよいといわれていました。
この昇任試験については、私なりにかなり真面目に試験勉強や試験対策もしていたのですが、高評価になる考え方で論文を書くことができず(高評価になる考え方が理解できなかったということです)、自分の考え方で論文をまとめていました。
高評価を安定して取れる受験者は、論文試験の対策ができる人でもあったわけです。自分の考え方で論文を書いている時点で、私が合格するのは難しかったのだろうと試験後に気づいたことを思い出します。
試験結果については、残念だとか悔しいというよりも「どうすれば論文の評価がよくなるのか分からなかったのだから仕方ない」という気持でしたが、お世話になった先輩方には申し訳なかったなと思います。
ただ、論文試験の結果はAとEだったことについて、
- 問いの背景や意図に対する自分の考え方そのものが間違っているのではない。
- (組織が求める)上級管理職に求める考え方が私の考え方と違っていた。
このため、評価が極端に割れる論文になったのであろうと推測しました。
その後、論文試験でAとE評価があったことは、
- 論文の問いに対する回答としては組織の求める答えとは違うけれど、内容はA評価と判断できるものだった。
- 自分の考え方そのものを否定されたわけでなない。
と考えることができました。
これは、昇任試験の受験資格がなくなり別の道に進むことを決心した時の理由の1つであり、その後の励みにもなりました。
採用試験でも極端に評価が割れた?
実は、中途採用の試験でも同じ様な経験をしたことがあります。
とある会社の最終面接に進んだ際、一次面接の人事責任者と二次面接の品質部門責任者の評価は高かったそうなのですが、最終面接をして頂いた役員の方からは最初から採用する気はないような対応をされたことがあります。ポジションは、二次面接の品質部門責任者の後任でした。
最終面接の役員さんとは評価基準云々というよりは、どんな人物像を求めているのかが違っていたような印象を受けたことを思い出します。
結局、この時は面接結果がいつまでも出てこないので、先に採用の決まった別の会社に進むことになりました。
採用試験では、人事による書類選考、担当部署による二次面接、役員(経営層)による最終面接と進みますが、それぞれ求めるものが違いますし、限られた情報と時間で評価し結論を出すことになりますので、よい評価を得ようと考えることそのものが、ちょっと無理があるのではないかと考えています。
大学生の就活のニュースを見たり、実際に活動している学生さんをみかけると、同年代の自分よりは優秀そうだなと感じています。
管理責任者としての評価の捉え方
管理責任者や内部監査責任者としてやるべきことをやっているだけでも、プラスの評価を聞くことはなく(何事もなくて当然のいう認識)、例えば不具合が多いとか、内部監査の結果に対し不平不満があるといった声を耳にすることがあります。
この様な不平・不満について、偉い方から「Aさんがこんなことを言っていた。」という一部を切り取り、「責任者は何をしているんだ。何とかするように」と指示されても困ってしまいます。
また、具体的に何がどうだったのか分からないだけでなく、そもそも情報が不正確で誤解している場合もあります。
このような場合にどうすればよいか相談されることがありますが、私は「受け流すように」と答えることが多いです。しかし、無視するのではなく受け流すのは、意外に難しいことのようで、なかなか伝わりません。
意見や不平・不満について確認することができれば、改善や対応ができます。しかし、確認できないことを指摘されても、具体的な何かを考えることさえできないのが現実です。
とはいえ、偉い方からの指示や言葉は、無視するわけにもいきませんので、私は受け流すことがベターな対応だと考えています。
偉い方に後日聞かれることがあったら、その件についてはよくわからないので、もう少し教えてくださいと聞けばよいと考えているのは、偉い人に直接対応する必要がないポジションにいるせいかもしれません。
まとめ
これは私が個人的に考えていることですが、「自己評価」という言葉があるのは「評価は他人がすること」だからと考えています。
評価についての一般的な考え方とは思ってませんが、評価は他人が判断した結果です。よい評価を得るということは、他人の評価が今よりよくなるような何かをすることになってしまいます。
私は、評価をよりよくしようとするのではなく、よりよい結果を得るために何をするかが重要だと考えています。
ここでは、「評価は結果だから、気にしてもどうにもならない」と私が考える理由について、以下の項目で説明しました。
- 昇任試験(論文)で評価が割れる
- 採用試験でも極端に評価が割れた?
- 管理責任者としての評価の捉え方